2013年1月26日土曜日

改革は前進せず、中国国内の社会不安のリスクはますます高まる可能性が高い

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JB PRESS 2013.01.22(火) 柯 隆
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36927

改革しなければ革命が待ち受ける中国
最大の障害は共産党内部の抵抗勢力

 改革とは既存体制へのチャレンジである。
 いかなる改革者も、既存体制が存続できるものであれば、改革にチャレンジなどしないはずである。
 なぜならば、改革の成果はすぐには表れない。
 短期的に改革は不利益や弊害をもたらす場合が多いからだ。
 外科手術に置き換えれば、患者の患部を切ってすぐには元気にならないのと同じである。
 手術をして療養することで初めて元気になるのだ。
 改革も同じである。

 哲学者ヘーゲルは「合理的なものは存在し、存在するものは合理的である」と述べている。
 そう考えれば、既存体制にいかなる問題があっても、存在する合理的な側面があるはずである。
 改革者がその不合理な部分を改革しようとした場合、既存体制から抵抗されるのは当たり前のことであろう。

 あと1カ月あまりで、中国の習近平新政権が正式に選出され誕生する予定である。
 国民の間で、習近平新政権の改革意欲に対する期待はにわかに高まっている。

 どのような手順で改革を進めるかは改革者次第だが、とにかく腐敗した政治を正常に戻し、安心した生活を送れるようにしてほしいというのが国民の期待である。

 換言すれば、社会主義中国が成立してからの六十余年、前半の毛沢東時代はいわば地獄だった。
 後半の鄧小平時代では、国民はようやく豊かになれると期待して、鄧小平が推進する「改革開放」政策を支持した。
 しかし、国民の多くは期待を裏切られた。彼らは改革と経済成長の果実を享受できないでいる。

■「民主主義こそ人民を解放する」と唱えていた共産党

 1945年、第2次世界大戦が終戦を迎えると、その直後から政権を握る国民党と政権を狙う共産党は内戦に突入した。
 4年間にわたる内戦の結果、国民党は全面的に敗退し、共産党は台湾を除く中国全域を制覇した。

 国民党が負けた背景には、行政府から国民党軍まで完全に腐敗してしまっていたことが挙げられる。
 その結果、人心は完全に国民党から離れていったのである。

 それに対して、毛沢東が率いる共産党は「我らこそ人民の利益を代表し、人民を解放する」と唱え、徐々に人心を引き付けた。
 当時、共産党系の新聞「新華日報」などは毎日のように、
 「独裁政治は必ず腐敗し、民主主義こそ人民を解放することができる」
といった論説や社説を発表していた。
 共産党のこうした主張に、一般の国民だけでなく大学教授などの知識人も希望を託した。
 中国の歴史学者によれば、これまでの100年間で、1950年代初期の数年間は中国社会が最も希望に満ちた明るい時代だったと言われている。

 しかし、政権を手に入れた毛沢東はすぐさま手のひらを返すように約束を破った。
 すなわち、国民党時代以上に毛沢東は独裁へと走っていった。
 それでも人民の大半は愚かだった。というのは、毛沢東が絶対に自分たちを幸せにしてくれると信じていたからである。

 1950年代半ば、英米諸国に追いつくために、すべての工業と農業の生産活動が停止し、全国の津々浦々で製鉄に取り組んだ。
 歴史教科書では「大躍進」と呼ばれている。
 その結果、農地は荒廃し、1959年から61年までの3年間、かつてないほどの凶作となった。
 歴史学者の推計によれば、この3年間、少なくとも2000万人が餓死したと言われている(4000万人の説もある)。
 ちなみに、抗日戦争(第2次世界大戦)の犠牲者は1800万人と推計されている。

 1979年、鄧小平は自らの復権とともに、「改革開放」を推進した。
 それに伴い、地獄から解放されるという希望が国民の間で沸き起こり、中国は 1950年代初期に次いで明るい時代を迎えた。
 しかし、鄧小平は国民に対して
 「働けば豊かになれる」
という約束をしただけであり、言論の自由や人権の保護などは一切約束しなかった。

 共産党が政権を握る前の「民主主義こそ人民を解放する」という主張は空約束だったのだろうか。
 共産党は自らの初心に立ち返るべきである。

■社会主義と資本主義の混合体制は持続不可能

 中国共産党が認めようが認めまいが、マルクスとレーニンが定義した社会主義体制は失敗に終わった。
 毛沢東が提唱し構築したのは社会主義と呼ばれている封建社会だったのである。
 毛沢東に「王位」を引き継ぐ子孫がいなかったのは中国国民にとり何より幸いだった。

 一方、不幸だったのは毛沢東が死去したあとも、彼の影響が依然として根強く残っていることだ。
 鄧小平は毛沢東時代の「過ち」を清算したが、毛沢東自身が犯した罪を問えなかった。
 実質的にラストエンペラーだった毛沢東が完全に否定されれば、共産党独裁体制そのものが危うくなるからである。
 鄧小平の「改革開放」政策は経済を発展させることが目的であり、共産党を解散するためのものではなかった。

 1990年代初期、東欧諸国や旧ソ連などの旧社会主義陣営は社会主義体制を放棄し、民主主義体制に転換した
 。いわば冷戦が終結したのである。
 しかし、中国は形の上ではいまだに社会主義を堅持している。
 同時に、民営企業が中国経済において重要な役割を果たしており、社会主義の代表的な財産の公有制は大きく変形している。
 つまり、今の中国社会は社会主義要素と資本主義要素が入り混じった存在になっている。

 問題は、こうした混合体制は持続することが不可能ということにある。

 不思議なことに、社会主義体制を堅持するとしている共産党首脳も、民主主義体制について受け入れる姿勢を示している。
 2011年イギリスを訪問した温家宝首相は王立協会で
 「明日の中国は全力を尽くして民主主義を構築し、法による統治(the rule of law)、平等と公正を実現するだろう。
 自由のない国は真の民主主義が実現しない。
 経済と政治の権利を担保しなければ、真の自由はあり得ない」
と述べた。
 社会主義を信奉する共産党指導者の発言と思えないほど開明的な考え方である。

 果たして中国共産党は、どのような国づくりを目指しているのか。
 共産党幹部の腐敗ぶりを見れば、現行の政治体制を持続していけるとは思えない。
 要するに、共産党は持続不可能な政治体制を無理して維持しようとしている。
 そのために、莫大なコストを払っているだけでなく、社会の歪がますます拡大してしまっている。

 民主主義は完璧な制度ではないが、それよりもいいシステムはまだ開発されていない。
 したがって、中国にとって民主主義以外の選択肢はないということである。

■共産党内部に巣食う抵抗勢力

 中国は重要な節目に差しかかっている。それは自らが現行の制度を改革しなければ、その先は革命が待ち構えているということである。

 「改革」とは現行制度の一部を手直しし、制度の移行をスムーズに進めることである。
 それに対して「革命」は現行制度を完全に否定し、新たなシステムを構築することである。

 両者の違いは社会に与える影響の深刻さにある。革命が起きれば、国民の財産そのものも脅かされてしまう恐れがある。
 北アフリカと中東で起きている革命は中国にとってある意味では反面教師になる。
 できることならば、革命ではなく改革による現行制度の欠陥を手直しする方が望ましい

 来る3月初旬に選出される習近平政権の最大なチャレンジは、いかにして共産党と政府の権限を制度的に制限するかである。
 制限の利かない共産党幹部の特権の膨張こそ政治腐敗のいちばんの原因である。
 現行の制度では、腐敗幹部を取り締まるのは共産党中央の紀律委員会である。
 こうした内部統制システムはまったく無意味ではないが、そのプロセスは不透明であるため、恣意的になりがちだ。

 現行政治体制の問題点はすでに明らかになっているが、これまでの六十余年間でこの制度はすでに中国社会に深く浸透している。
 少なくとも権力者の多くは自らの権限が制限されることを容易には受け入れないだろう。

 改革を推進する国内の研究者は、このままでは大変なことが起きると警鐘を鳴らすが、権力者には聞き入れてもらえない。
 現既得権益を得ている権力者が多数存在するからである。
 そうした中で改革の合理性をいくら唱えても、権力者は本気で改革に取り組もうとはしない。

 2012年11月共産党総書記に選出された習近平氏は改革に意欲を示しており、それに対する国民の期待も少し高まっている。
 しかし、過度な期待を寄せると、あとになって失望してしまう可能性が高い。

 仮に習近平総書記が改革について意欲満々でも、共産党内部の抵抗勢力を抑えることができるかどうかは未知数である。
 改革は前進せず、社会不安のリスクはますます高まる可能性が高いと見るべきである。


 「改革」というのは非常に難しい。
 なぜなら、「共産党独裁」という言葉そのものが、「非改革」という意味を含んでいるからである。
 金銭に肥えた人間は、ちょっとやそっとで身を切るようなことはしない。
 改革をするくらいなら、財布を握って逃げ出すだろう。
 しかし、周りの連中の誰もがしっかりと財布を握っているのなら、財布連合を作って腐敗撲滅を唱える「反既存勢力」に対抗しようとする。
 ぜいぜいのところ、「トカゲのシッポ切り」で終わることになる。
 末端部分のささやかな腐敗がアドバルーン的にやり玉に挙げられ、共産党中枢本体はいつもにもまして肥え太っていくだけ。
 よっっておそらく、
 改革なるものが実行されるときは暴力的な「動乱」ということになる
しかない。
 共産党と強いていえば民衆党との戦いになりそうだ。

 先読みが許されるならば、尖閣問題は「動乱の隠れたキー」になる可能性がある。
 現在このキーの発動によって、これまで静かだった中国国内の様々なものが表面に浮かび上がってきている。
 不満、不安として鬱憤や怒りなどが社会の表面を覆い始め、それが勝手に動き始めると手がつけられなくなってくる。
 尖閣は対外的なもので表出行動を許されていたが、行動のやり方を知れば、それを国内問題に応用するのは僅かな一歩となる。
 これまで見られなかったというより抑えこまれていた「反共産党」「賞味期限切れの党」というイメージも膨らんでくる可能性もある。
 このイメージが形をもち、賛同を得ると瞬く間に広がる可能性もある。
 もしかしたら尖閣とはパンドラの箱の蓋の一部であったことにもなりかねない。




中国戦闘機、スタンバイへ


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